[作品]
1. 黒いリボンをつけたブーレ
2. Embellish Me!
3. Melt Me!
4. リボン集積
5. コピー・アンド・ペースト,大量生産/消費された不規則/不完全な形状のプラスチック真珠そして私。
6. リボンの血肉と蒸気
7. 廃墟・秋葉原のアリス 1, 2
8. パニエ、美学
我々は、西洋音楽において、ポップアートの先端に位置する。梅本佑利と山根明季子。両者に共通するのは、 ミニマリスティックな書法であり、扱う素材やコンセプトは、サブカルチャーと消費社会に言及する。
私(梅本)は2018年にデビューし、それとほぼ同時期、山根に出会った。当時、彼女は日本の現代音楽界において極めて異質で孤立した存在であった。
山根は2000年代から現代の消費社会の構造を観察し、 それらをシミュラークルとして持ち込んだ。「状態No.1(2018)では、パチンコ台をコンサートホールに陳列させ、演奏家にパチンコを「演奏」させた。ゲームセンターの音響を「オーケストレーション」し、100円ショップのおもちゃで「器楽曲」を作る。日本のサブカルチャー、過剰な消費社会、「カワイイ」や「少女」を主な題材として扱う彼女は、西洋美術におけるシミュレーショニズム・ムーブメントの大々的な輸入を逃し、資本主義社会の喧騒から大多数が現実逃避する未だ男性中心主義的な日本の現代音楽界で、最も急進的な作曲家の1人であった。
当時、私はそんな彼女の活動に大きな衝撃を受け、10代の終わり頃から、彼女の文脈を意識した音楽を作り始めた。
もっとも、古今の西洋音楽をみれば、アメリカのジョン・ケージは、ビートルズのヒットソングを用いた「The Beatles 1962-1970」(1990)、ラジオ、レコードを演奏に持ち込んだ曲など、多数の作品でシミュレーショニズムの文脈を感じるものを残しているし、ケージの系譜を名乗るドイツの中堅作曲家、ヨハネス・クライドラーは「ニュー・コンセプチュアリズム」を掲げ、マイクロソフトの作曲ソフトウェアを用いて株価の変動を模写した「Charts Music」(2009)(後に山根明季子が編曲し、日本初演している。)を発表するなど、たしかにその文脈は欧米に存在するのであった。例えば、テリー・ライリー、スティーブ・ライヒ、フィリップ・グラスに代表されるとされる「ミニマル音楽」は商業音楽に接近し、現在、現代音楽で唯一の大衆性を獲得した「ポップアート」とも言える。ライヒのスピーチメロディの手法を継承するオランダの作曲家、ヤコブTVは、アメ リカのテレビ番組やCMなど、大衆のメディアをサンプリングして西洋楽器と演奏する作品を数多く発表し、2018年に山根がキュレーションした演奏会でも紹介されている。ミニマル音楽の作曲家と山根は、ポップ(大衆化された)なコード進行、長音程や音階を内包する素材の執拗な反復性など、書法においても共通点が多い。 梅本は、それら西洋音楽の文脈に、西洋美術の「スーパーフラット」的概念を導入し、日本人によって理想化された西洋を、自らのアイデンティティと主張し体現する。
以上の作家の作品は、山根、梅本を理解するための強力な出典となり得るだろう。
山根明季子が2008年に作曲した最初の委嘱作品「ケミカルロリイタ」(チューバとピアノのための)で、チューバは、ルイス・キャロル:「不思議の国のアリス」の一節を語る。梅本による「~Me」(2022, ヴァイオリンのための)の連作において、同名の作品が引用されるのは、山根の出発点「ケミカルロリイタ」の系譜を明確にするためでもある。山根はその後も、「少女メランコリー」(2011, ヴァイオリンとトイピアノのための)、「ハラキリ乙女」(2012, 琵琶とオーケストラのための)などで、積極的に「少女」を描いてきた。
そんな、山根の描く「少女」はどこか憂鬱だ。彼女の作品には、少女の自傷的な衝動が見て取れる。「少女メランコリー」では、"破壊的でグロテスクな思考回路"が描かれ、「ハラキリ乙女」では、"カッターなどの鈍い刃物"で、自ら肌を切り付ける。最初の委嘱作品の表記にみられるように、その少女は「ロリータ」ではなく、「ロリイタ」と、日本のロリータファッションの文脈であることが伺える。漂う死の匂いとロリイタ。そんな彼女の作品はいかにもゴスロリ的なのである。
日本のゼロ年代思想や、80年代以降のオタク論のように、言論の世界において、サブカルチャーとしての「ゴシック」は「オタク」ほど語られていない。山根明季子は今回のプロジェクトまで、自身がゴスロリ的な作品を作曲していたとはほとんど認識しておらず、自己を批評的に言語化してこなかったと梅本に語っているが、その内向的な性格はまさにゴシックの精神のようにも思える。オタク(の一部)が、現代美術や思想、言論で、ある意味の社交性を身に付けたのと比較して、ゴシックはメディア、言論への登壇を極力避けた。言葉を発しないことは、極めて強力な「防御」として「美」を死守する手段なのかもしれない。
西洋音楽における日本式ポップアートを開拓した最重要人物、山根明季子が、長年の的外れな評論で、ほとんどまともな言語化をされることなくここまで来てしまったのには、それらの一筋縄ではいかない複雑な要因があると私は考える。だがそれと同時に、私は絶対に、この価値ある革新の文脈を埋もれさせたくはない。私の、そして未来の芸術音楽の源流が間違いなくそこにあるからだ。そして、そのために、いま言語化が必要なのだ。我々の活動の第一段階に「ゴシック・アンド・ロリータ」を置いたのは、まずそのエニグマを芸術でもって解き明かし、提示することにある。
ゴスロリで過去を見て、未来の世界を占う。情報の樹海を彷徨う現代の少女は、あらゆる装飾で防御し、その美でもって、死を超越する。生まれもった肉体とあらゆる物質を自在に縫い合わせ、無限の可能性を持って変容すること。生まれ持ったものが物事の本質であるなどと、本質主義的に捉える時代は終わった。出自について語る意味と、出自の無意味さは共存する。書けば書くほど、聴けば聴くほどナンセンス。インベリッシュ・ミー!アリスの体は知でもって、その過剰な装飾によって変身する。
梅本佑利
林健太郎
「彫刻、絵画など音楽以外のあらゆる芸術は自然の秘密の意図を推測する前に、表象をまとめねばならない。それに対して、メロディー、ハーモニー、楽音は直接、自然自身の表明なのである。音楽家は神の意思の脈拍が世界を貫くのを直接聴く(ショーペンハウアー)」 2013年すでに世界的にその名が知れていた彼と出会った。20年以上ヴァイオリンを弾いていた自分も「君の持っているそれは何という楽器ですか?」と問いたくなるようなとびぬけたテクニック、音色、華。風姿花伝にいう「時分の花」も備えていたように思う。幸運にも食事をご一緒すると、音楽の話だけでなく、どの話題でもどんどんと掘り下げ、あるいは広げてゆく、音楽性というより、感覚の鋭さと感性の豊かさ、興味の幅の広さにすっかりファンになってしまった。それからは数か月に1回程度は彼の公演を聴いてきた。驚いたのは毎回彼が変化をしてきたということだ。音色も、音楽の作りも毎回驚くほどに変化を重ねてきた。すでに完成されていた「テクニック」を武器にお客さんをびっくりさせ続けたかといえば、まったく違うのである。テクニックを前面に押し出した演奏を彼はむしろ忌避していたようにすら思う。当時は「パガニーニのライバル」という異名をつけられ、そのイメージで引っ張りだこであったが、彼にとってはおそらく意味のない異名であり、いつだったか「パガニーニのコンチェルトはもう封印します」という言葉を聞いたこともあった(実際封印している)。周りのオトナから求められるそのイメージにあまり深く考えず乗ってしまうことを彼は決して良しとせず、常に変化と進化をもとめていた。しかし、とてつもないスピードで進化を求めるということは常にギリギリで挑戦し続けたという事。いつもキラキラと前だけ向いて壁にもぶち当たらず、年月を重ねてきたわけではないように見えた。時には彼の中にあふれる音楽が楽器を超えてしまい、ヴァイオリンは答えてくれていないように見えたこともあった。それでも彼は「パガニーニのライバル」という、いわば売れるスタイルを一切振り返らなかった。比類ないテクニックと、純粋さ、ある種の不器用さが同居しているというのは彼を表現するうえで一つカギになるかもしれない。彼が追い求めているのはあくまで音楽そのものなのだろうと思う。彼とは様々の本について語ったが、その中の一つが「音楽の本質と人間の音体験(ルドルフ・シュタイナー著)」である。その中で引用されていたのが冒頭のショーペンハウアーの言葉だ。彼の音楽を営む姿勢をとらえているように思う。いつも音楽を追求している、いや、音楽を通して、自分とはなにか、命とはなにか、世界とは何かを追っているのかもしれない。
彼はいま同時代を生きる作曲家の作品に取り組むことが多い。現代に生まれる音楽作品は、ともすれば、華やかで心地よいものではなく、「難解」といわれてしまうが、彼がその営みに心惹かれていることも彼自身を少なからず表している。音楽を体験することは自分と世界とのつながり、世界への理解についてほんの少しだけ深め、広げうるチャンスだ。心地よさや、癒しというのは、その副産物に過ぎない。例えば、ベートーヴェンを体験する事はベートーヴェンが命を懸けてくみ上げることに成功した巨大な「自然の秘密の意図(冒頭の引用文)の一部」からさらにひとかけらを頂く作業のように思う。実際優れた音楽家たちがホールで奏でるとき、見えるのは命そのものに感じることもある。一方現代の作曲家は今まさに「自然の秘密の意図」をくみ上げようとしている人たちだ。それは失敗に終わっている作品もあるだろうが、聴衆はくみ上げようとしている作業について、その場で思考の手を、感覚、感性の翼を最大限のばす。成田達輝も同じように手や翼を広げて作品を感じ、うけとるのだろうが、おそらくは手の大きさ、翼の大きさが桁はずれなのだ。その大きな手と翼で受け取ったものを丁寧に我々にも届くように工夫を重ねてくれている。過去の大作曲家にも通奏している、くみ上げようとする作業自体には、やはり世界とはなにか、命とは何かという命題が含まれるように思う。彼の音楽をするスタイルからすれば、今を生きている人とくみ上げる作業をすることにたどり着いたのは至極自然なことなのだろう。
恐らく芸術家として根本的である「くみ上げる作業」は、彼自身をもやはり高めている。現代の作品で磨かれた彼がその目で再度バッハ、ベートーヴェンなど過去の作品を見る時の輝きを、まだ多くの聴衆は知らない。きっと多くの音楽ファンを驚かせ、音楽家の仲間たちもそれを体験してまた高みを目指すだろう。私もこの後彼がどこまで行くのか想像もつかない、もちろん同じ目線で同じものを見ることはかなわないが、彼が見ようとしているものに対する想像力を失わずに齢を重ねたいと心から願っている。
ゴシックとロリータは憧れでした。少女時代はお洋服として外で纏うほどの力がない、しかしその精神性に惹かれ刺激を受け、常にインスパイアされていました。今回改めて向き合うことで自分の中の深い部分が掘り起こされるようです。西洋芸術音楽とゴシック、更にはロリータを通して見えてくることが想像していた以上にあり、まだ音として捉えきれていなくて形にできるものが無数にあるということも実感しています。(山根)
無名(むみょう)という会社を作った。芸術音楽で起業した。私はこの人生のすべてを「芸術」に捧げようとしている。それは資本主義という巨大な力が支配するこの世界において、自己の生き残りを懸けた願望にほかならない。欧米の価値観があらゆる文化を飲み込んだ現代社会において、21世紀初めの日本という国にたまたま生まれてしまった「私」は、どのようにしてその存在を証明することができるのか。これは、思想の鍵穴を見つけ、物質や時間を超越した芸術の強度でもって、肉体と記憶の死から逃れるための挑戦である。人類が手にした最も高度な記憶装置が、もしかすると「芸術」、付言するなら「音楽」なのではないか。ぜんぶ幻想かもしれないけれど、そう信じなければ、生きていけない。(梅本)